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鈴木政吉物語

工場生産の開始

明治23年(1890)、生家から東門前町の借家に仕事場を移し、さらにその翌年大枚300円を投じて向かいの住宅を買入、これを工場にし生産、研究を続けました。
その結果、第3回内国勧業博の有功賞(明治23年)を皮切りに、北米コロンブス世界博の賞牌(明治26年)や第4回内国勧業博の進歩賞(明治28年)を受賞し結実してゆきます。

政吉は、これらの表彰によって自信を得ながらも、用材の選定から乾燥の具合や塗装の配合等という製作上のあらゆる難問にぶつかるのでした。

しかし、長唄の稽古で養った自慢の耳と、口癖に云う"二つのぼう"とで、彼はそれらの難問と戦いながらバイオリン製作に没頭してゆきます。
二つのぼうとは辛抱(しんぼう)と貧乏(びんぼう)のことであり、政吉得意のキャッチフレーズでした。

そんな精神のもと政吉は、その後訪れる経済恐慌や日清戦争直下の衝撃を凌いでいくのです。

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明治33年の三大壮挙

パリ万国博銅賞の賞状
日清戦争の勝利が会社企業の異常な勃興を誘う中で、音楽界には芸術的洋楽の発展と民衆音楽の拡大という新気運が開けてきましたが、政吉はこの明治30年代の初頭を三つの壮挙で飾ります。
第一は、バイオリン頭部の自動削り機(渦取機)の考案及び完成。さらに二年後には甲削機(表板と裏板に丸みを持たせる加工)の発明。
第二は、本格的工場の建設。住宅まがいの作業場から近代式工場へと脱皮。
第三は、パリ万国博にて政吉のバイオリンが銅賞を受賞。

以上の壮挙を期に、政吉は事業飛躍の体制を樹立し、念願のバイオリン大量生産のはじまりとなったのでした。

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記録に残る最盛期






大正3年(1914)、欧州大戦が勃発し、世界のバイオリン市場を独占していたドイツの生産が絶たれると情勢は一変します。 世界各地からの発注が政吉に集まってきたのです。

政吉は量産にめげず、なおも研究姿勢を崩しませんでした。

バイオリン製造過程における塗りに対しても、つねに品質の維持向上をもとめ、研究開発をしては新技術を現場に持ち込んだのです。
輸入断絶で入手困難となったバイオリン弦の自 社開発にも成功し、大正6年には産業界の功労を称える緑綬褒章の授与となりました。
急膨張した発注に対し、それに見合う生産体制の確保と更なる品質向上はのちに、歴史に残るバイオリン製造最盛期につながってゆきます。

当時従業員は1000名を越え、毎日500本のバイオリン、1000本以上の弓が量産され、 輸出のみで年間に10万本のバイオリン、 50万本の弓を記録したといわれています。
また、4系列・27品種のバイオリンを筆頭にビオラ以下の新器種は全て数品種を揃え、それだけにとどまらず、マンドリン、ギターも製造しました。 あわせて、弦楽器53種、弓23種、ケース13種の多岐にわたるまでになっていました。

事業拡大はもとより、音楽を愛し、バイオリンを取りまく全てを政吉は愛していました。
大正10年から同末年にかけ、エルマン、クライスラー、ハイフェッツ、ジンバリスト、モギレフスキー等世界一流のバイオリニストが来日した時期、名古屋における彼らの演奏会を主催したのも、彼らの名器を調整修理したのも政吉だったのです。
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